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水のカムイ観光圏とは

釧路湿原、阿寒湖、摩周湖があるエリアのことをいい、東北海道に位置するこの地域は、美しく雄大な自然環境の宝庫。水の恵みによって潤う大地には自然との共生を重視し、あらゆるものに神(カムイ)が宿ると考えるアイヌ文化の思想が今も息づいている。 水のカムイ観光圏には、地元の人々が長い間守ってきた『手付かずの自然』と生態系をもつ2つの国立公園-釧路湿原国立公園・阿寒摩周国立公園がある。釧路湿原・阿寒湖・摩周湖はこの2つ国立公園の中に位置し、訪れた人々は皆、多彩な表情をもつ自然の奇跡に出逢う。

Kushiro釧路

歴 史

北海道が蝦夷地と呼ばれていた江戸時代、釧路はクスリ(アイヌ語で「越える道」「のど元」といった諸説あり)と呼ばれていた。
ここに松前藩が交易を行う拠点として「クスリ場所」を置いたことで、釧路の街の歴史が始まった。その後、アイヌとの交易や漁業、そして交通の中心地点として栄えていった。
明治時代になり、「クスリ」から「釧路」へと名称が変更。大正時代には石炭業がはじまり、昭和時代まで日本有数の採掘所として釧路の産業を支えていた。
現在では石炭業が衰退している中、釧路だけは日本で唯一の坑内掘炭鉱で石炭を生産している。様々な産業が盛んな釧路は、現在でも道東の産業や交通の中心拠点のひとつとして位置付けられている。

自 然

釧路湿原は、日本最大の湿原である。約4000年前、流入した砂によって湾が閉じられ、土砂や泥炭などが堆積する一方で海水が徐々に引いていき現在の湿原が形成された。世界でも稀な無数の生命を育む特別な場所。そこは日本の特別天然記念物タンチョウの生息地でもある。

Akan阿寒

歴 史

約160年前の松浦武四郎日記に、阿寒川沿いのアイヌコタンの記述がある。
新政府により開拓が進められた明治時代、舌辛村、徹別村、蘇牛村と名付けられた阿寒地方は、明治20年、鶴居村に阿寒郡戸長役場が設置され、阿寒地区の管轄が開始した。
明治39年、前田正名氏が自らの土地を「一歩園」と称し、阿寒地域の開拓に着手。私財を投じ、道路の開削や教育施設をはじめとする各施設の建設に献身した。
その後も「一歩園」は自然保護や福祉振興に努め、三代目光子氏により行われた土地の無償提供により、アイヌの人々の生活や勉学の道が開かれ、アイヌ部落が形成された。
そして、民芸品や古式舞踊、まりも祭りなどにより、今日の阿寒エリアの観光の発展に寄与した。

自 然

阿寒湖は、北海道東部を代表する観光地となっている淡水湖。太古の昔、激しい火山活動によって広大なカルデラが形成され湖が生まれた。この地を訪れる多くの観光客は、動植物の多種多様さに驚かされている。世界で唯一の球状マリモの生息地として知られる阿寒湖は、その特別な地形、森、風波による水の流れ、湖底の性質など、自然がもたらす奇跡のバランスによって球状マリモの生息を可能としている。(※阿寒湖マリモ1952年3月29日特別天然記念物に指定)

Teshikaga弟子屈

歴 史

160年前の江戸時代、北海道の名付親・松浦武四郎がこの地を探検。弟子屈町はわずかなアイヌの人々が暮らすだけの大原生林地帯だった。
明治に入り、硫黄山の硫黄採掘によって近代化が始まる。さらに温泉宿を開設したことで弟子屈の観光がスタートする。
その後、硫黄採掘は中止されたが、農業指導者・小田切栄三郎の指導により、穀物を主とした、農業に畜産を加えた混同農業が推進される。この混同農業への取組が、弟子屈の発展に大きく貢献することとなり、道東が酪農王国と言われるルーツともなった。
現在でも弟子屈地域は、摩周湖や屈斜路湖、硫黄山といった自然資源に囲まれながら、
豊かな温泉や農業によって多数の観光客で賑わいを見せている。

自 然

摩周湖は、世界でも有数の透明度を誇る湖。約7000年前、摩周火山が大噴火により陥没し、その摩周カルデラに水が蓄えられ、摩周湖が誕生した。切り立った崖に四方を囲まれたこの湖は、静謐で、限りなく透明なブルーに輝く。これを人々は『摩周ブルー』と呼んでいる。

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